、私はそれにあまり重きをおかぬといふことである。哲學上の用語の意味を知らうといふのなら、哲學辭典がある。またどのやうな説があり、どのやうな傾向があるかを知るには、哲學史に依らねばならぬ。もちろん私は決して哲學概論といふものを輕蔑するのではない。私がいひたいのはただ、順序として先づ概論の名の附くものを讀まねばならぬかの如く考へる形式的な考へ方にとらはれないといふことである。哲學に入る道はもつと自由なものと考へて好い。

       二

 私自身の經驗を話すと、高等學校の頃、哲學に關心をもち始めたとき、わが國にはまだ哲學概論と稱する種類の書物は殆ど見當らなかつた。私が哲學に引き入れられたのは西田幾多郎先生の『善の研究』によつてであつた。そして今も私はこの本を最上の入門書の一つであると思つてゐる。その頃の高等學校には、文科にも哲學概論の講義はなく、あつたのは心理と論理とだけであつた。また高等學校の時には、後に哲學を專攻する者も、心理と論理とを勉強しておくものだといふのが、私ども一般の考へでもあつた。そしてその頃は世界戰爭の影響でドイツ語の本は全く手に入らなかつたので、私はジェームズの『心理學原理』とかミルの『論理學體系』とかいつたものを丸善から求めてきて、ぼつぼつ繙いてゐた。それは日本の哲學書出版に時代を劃した岩波の『哲學叢書』が刊行され始めた時期であつて、その中のヴィンデルバントのものを紹介した『哲學概論』を讀んでみたが、正直にいふと、よく理解できなかつたのである。三年生の時、小さな會を作つて、ヴィンデルバントの『プレルーディエン(序曲)』の中の『哲學とは何か』を謄寫版刷りにして速水滉先生から讀んで戴いた。高等學校時代、私は直接には速水先生から最も多く影響を受けた。心理學の本を比較的多く勉強したのもそのためであるが、最も興味を感じたのは、ジェームズの『心理學原理』であつた。そしてこれは今も私が人に勸めたい本の一つである。ヴィンデルバントの『哲學概論』は概論中の白眉として定評のあるものであり、ぜひ目を通さねばならぬものではあるが、初めに讀むものとしては少しむづかしいであらう。この人のものとしては寧ろ初めに『プレルーディエン(序曲)』を讀むのがよいと思ふ。これはそれ自身立派な入門書と見ることができる。ヴィンデルバントの哲學概論と共にわが國で知られてゐるディルタイの『哲學
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