に現代の科學として特に重要な意味をもつてゐるものに、社會科學、文化科學、精神科學、歴史科學等の名をもつて呼ばれるものがある。歴史的社會的實在が現代哲學の根本問題であるともいはれるのである。自然科學はガリレイ以來その基礎が定まつてゐるが、社會科學にはまだそのやうに定まつたものがなく、その基礎を明かにすることが現代の重要な課題であるともいはれるであらう。要するに學問においても、人生においてと同樣、自分を發見することが大事である。その自分は同時に時代のうちに發見されるものであることは云ふまでもない。
哲學はもちろん科學と同じではない。しかし哲學は科學によつて媒介されねばならぬ。科學を萬能と考へるのではない。そのやうに考へる人には哲學は不要であらう。無條件に科學を信じてゐる者はすぐれた科學者になることもできないであらう。科學的知識を絶對的なもののやうに考へるのはむしろ素人のことであつて、眞の科學者は却つてつねに批判的であり、懷疑的でさへあるといはれるであらう。少くとも科學を疑ふとか、その限界を考へるとかいふところから哲學は出てくる。しかしながら懷疑といふのは、物の外にゐて、それを疑つてみたり、その限界を考へてみたりすることではない。かくの如きは眞の懷疑でなくて、感傷といふものである。懷疑と感傷とを區別しなければならぬ。感傷が物の外にあつて眺めてゐるのに反し、眞の懷疑はどこまでも深く物の中に入つてゆくのである。これは學問においても人生においてもさうである。容易に科學の限界を口にする者はまた無雜作に何等かの哲學を絶對化するものである。感傷は獨斷に陷り易い。哲學はむしろ懷疑から出立するのである。そのやうな懷疑が如何に感傷から遠いものであるかを知るために、既に記したデカルトの『方法敍説』を、或ひはまた懷疑論者と稱せられるヒュームの『人生論』を、或ひは更にモンテーニュの『エセー(隨想録)』を讀んでみるのも、有益であらう。
八
多くの人々は人生の問題から哲學に來るであらう。まことに人生の謎は哲學の最も深い根源である。哲學は究極において人生觀、世界觀を求めるものである。ただその人生觀或ひは世界觀は哲學においては論理的に媒介されたものでなければならぬ。もちろん直觀を輕蔑すべきではない。そして忘れてならないのは、直觀も訓練によつて育てられるものであるといふこと、その訓練
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