を學ぶことである。もちろん直觀にもそれ自身の明晰性と嚴密性がある。しかし直觀の明晰性や嚴密性も、論理的に明晰に嚴密に思考することを知らない者には達せられないであらうし、少くとも哲學的に重要なものとはならないであらう。明晰に思考することを學ばうとする者は先づ初めにどのやうな本を讀めばよいであらうか。さしあたり私はリッケルトの『認識の對象』の如きを勸めたい。この本は私どもが哲學の勉強を始めた時分には殆ど誰もが入門書として讀んだものである。今はどれほど讀まれてゐるか知らないが、私は今もやはりこれを一つの適當な入門書であると考へてゐる。

       九

 すでに私は明晰に考へることを學ばねばならぬと述べた。考へるといふことは、元來、明晰に考へることである。もとより哲學には深さも大切である。しかし濁つてゐるために底が見えないに過ぎぬといつた場合もあるので、深さうに見えるもの必ずしも深いとは限らず、むしろ反對であることが多い。どこまでも澄んでゐて、しかも底の知れないものが、眞に深いのである。眞の深さにはつねに豐かさがある。盡きることなく湧いて出てくる豐かさのないものは眞に深いとはいへない。この豐かさはまた廣さともなるであらう。哲學に入る者が學ばねばならぬのは、物をはつきり考へること、廣く考へることである。廣く見、廣く考へることは、獨斷や偏見とは反對のものであるべき哲學の基本的な條件である。深さに至つては、學び得るといふものではない。深さといふものは、結局、人間の偉さであると思ふ。それ以外深さうに見えるものはペダントリ乃至センチメンタリズムに過ぎぬ。深さといふものは學問を媒介とする學問以上の人間修業によつておのづから出てくるものである。單なるペダントリ乃至センチメンタリズムに過ぎぬいはゆる深さに迷はされることなく、それを突き切つてゆくところに哲學的精神がある。明晰な書物はつねに有益であるが、深さうに見える書物は學問にとつて有害なことが多い。眞の深さについていへば、哲學することは眞の人間になることである。そしてすべての人間がめいめい獨自のものであるやうに、深さもそれぞれ獨自のものである。一般的な深さといふものを私は信じない。もし何かそのやうなものがあるとすれば、それは明晰に直觀され、明晰に思考され得るものでなければならぬ。
 ところで思考については論理學の存在が考へられるであ
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