には王法をもておもてとし、内心には他方の信心をふかくたくはへて、世間の仁義をもて本とすべし。これすなはち当流にさだむるところのおきてのおもむきなりとこころうべきものなり。」といい、また「それ国にあらば守護方、ところにあらば地頭方にをひて、われは仏法をあがめ信心をえたる身なりといひて、疎略の儀ゆめゆめあるべからず。いよいよ公事をもはらにすべきものなり。かくのごとくこころえたる人をさして、信心発得して後生をねがう念仏行者のふるまひの本とぞいふべし。これすなはち仏法王法をむねとまもれる人となづくべきものなり。」といい、また『御一代記聞書』には「王法は額にあてよ、仏法は内心に深く蓄えよ」ともいっている。宗祖親鸞においてはかような定式は見出されない。『御消息集』には次のごとく書かれている。「念仏まふ[#「まふ」に「(まう)」の注記]さん人々は、わが御身の料はおぼしめさずとも、朝家の御ため、国民のために、念仏をまふしあはせたまひさふらはば、めでたふさふらふべし。往生を不定におぼしめさん人は、まづわが身の往生をおぼしめして、御念仏さふらふべし。わが御身の往生一定とおぼしめさん人は、仏の御恩をおぼしめ
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