と信仰とが分離することなく、生活が念仏であり、念仏が生活であるべきことを意味するのである。法然はいう。
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「現世をすぐべき様は、念仏の申されん様にすぐべし。念仏のさまたげになりぬべくば、なになりともよろづをいとひすてて、これをとどむべし。いはく、ひじりで申されずば、めをまうけて申すべし。妻をまうけて申されずば、ひじりにて申すべし。住所にて申されずば、流行して申すべし。流行して申されずば、家に居て申すべし。自力の衣食にて申されずば、他人にたすけられて申すべし。他人にたすけられて申されずば、自力の衣食にて申すべし。一人して申されずば、同朋とともに申すべし。共同して申されずば、一人籠り居て申すべし。」
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さて世間の法すなわち俗諦は、浄土真宗の宗乗学者によれば、「信心為本」に対して「王法為本」である。あるいは信心正因、称名報恩に対して、「王法為本」、「仁義為先」といわれている。この語は宗祖の法孫蓮如上人の『御文章』に、「ことにまづ王法をもて本とし、仁義をさきとして世間通途の儀に順じて」という言葉に出づるものである。同じく『御文章』には「ことにほか
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