るのである。たまたま信心を得たものはかかる宿縁をよろこぶべきであり、念仏の行者はかかる宿縁においてつながるものとして原始歴史的自覚において、同朋の意識を深めるのである。〔欄外「『たまたま』原始歴史」〕『大無量寿経』には、「法を聞きてよく忘れず、見て敬ひ得て大によろこばば、すなはち、わが善き親友なり。」と仏は述べている。
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*「問ていはく、聖人の申す念仏と、在家のものの申す念仏と、勝劣いかむ。答へていはく、聖人の念仏と、世間者の念仏と、功徳ひとしくして、またまたかはりあるべからず。」と法然は書いている。
**曇鸞の『往生論註』下には「同一に念仏して別の道無きが故に、遠く通ずるに、それ四海のうちみな兄弟とするなり」と示されている。
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 ところで無戒という時代の特徴は、単に出世間の法のみではなく、同時に世間の法が重んじられねばならぬことを意味する。世間の生活から遊離することなくして仏法を行ずるということに無戒ということの積極的意義がある。浄土門の教が易行道であるということは、それが出世間の法として行ない易いことを意味するのみではなく、かえって生活
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