故に、同一であるのである。そこにはもはや師弟の差別さえもあり得ないのである。「親鸞は弟子一人ももたずさふらふ」という。「専修念仏のともがらの、わが弟子、ひとの弟子といふ相論のさふらふらんこと、もてのほかの子細なり。親鸞は弟子一人ももたずさふらふ。そのゆへはわがはからひにて、ひとに念仏をまうさせさふらはばこそ、弟子にてもさふらはめ、ひとへに弥陀の御もよほしにあづかりて、念仏まうしさふらふひとを、わが弟子とまうすこと、きはめたる荒涼のことなり。」と『歎異鈔』は記している。同朋同行主義は念仏は弥陀廻向のものであるというところにその超越的根拠をもっている。そこには我はなくわが弟子もなく、ただ教法のみが人を尊厳ならしめるのであって、互いに「御同朋御同行」として相敬うのである。かかる同朋思想は、念仏の行者は同じ縁につながるものであるという意識によって深められるであろう。「ああ弘誓の強縁、多生にもまうあひがたく、真実の浄信、億劫にもえがたし、たまたま行信をえば、とほく宿縁をよろこべ。」と『教行信証』総序にはいわれている。弥陀の法を聞くということは重縁によるのであり、如来の方から我々に結ばれた強縁によ
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