、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきがゆへに」と『歎異鈔』にはいわれている。すなわち真理あるいは仏法、出世間の法は「信心為本」である。往生のためには他の善は要なく、念仏で足りるとすれば、すべての念仏者は、僧俗を分たず、貴賤貧富を論ぜず、平等でなければならぬ。末法時における無戒は諸善万行を廃してただ念仏のみが真実であるということの徴表である*。無戒ということは諸善万行の力を奪うものであり、そして積極的には念仏一行の絶対性、念仏の同一性、平等性を現わすものである。念仏はあらゆる人において同一であり平等である。念仏の行者はたがいに「御同朋御同行」である。かかる御同朋御同行主義[#「御同朋御同行主義」に傍点]は浄土真宗の本質的な特徴であり、そして、そこに信者の社会的生活における態度の根本がなければならぬ。かかる兄弟主義の根柢は全く「同一念仏無別道故」である**。しかも念仏がすべての人において平等であり、同一であるのは、この念仏が自力の念仏ではなくて他力の念仏であるがためである。もしも念仏が自力の念仏であるならば、各人の念仏に勝劣があり、平等ではないであろう。すべての念仏は弥陀廻向の念仏であるが
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