点]をいうのであり、王法は世法[#「世法」に傍点]であり、故にまた世間[#「世間」に傍点]の法が俗諦であり、出世間[#「出世間」に傍点]の法が真諦である。右の文は真諦俗諦相依の意義を顕わしたものと解される。
 真諦俗諦の語がかくのごとく『教行信証』化巻において時代を勘決して正像末法の旨際を開示するにあたって、『末法燈明記』の文によって現われていることは、注目を要するであろう。すなわち真俗二諦の教義はその根源において末法思想に関係して、それ故に時代の自覚に従い、歴史的意識に基づいて理解さるべきものなのである。
 すでに述べたごとく、末法時の特徴は無戒ということである。そこには道俗の本質的な区別はなくなる。賢愚、善悪、凡聖、老少、男女の区別も意義をなくする。それは聖道自力の教とは異なる絶対的な教が出現すべきことを意味している。この教は信心を根本とする教である。「弥陀の本願には老少善悪のひとをえらばず、ただ信心を要とすとしるべし。そのゆへは罪悪深重、煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にてまします。しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆへに、悪をもおそるべからず
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