であり、また真実である。そしてそこに彼の思想の特殊な現実主義の特色が見出されるのである。
 もとより諸行無常は現実である。そしてそれは仏教の出発点である。この世における何物も常住のものはない。すべては生成し消滅し変化する。かくして我々の頼みとすべき何物もないのである。生老病死は無常なる人生における現実である。かかる無常の体験が釈迦の出世間の動機であった。無常はさしあたり仏教の説ではなくて世界の現実である。常ないものを常あるもののごとく思い、頼むべからざるものを頼みとするところに、人生における種々の苦悩は生ずる。無常は現実であると知りながら、その認識を徹底させることのできないところに人間の迷いがあり、苦しみがあるのである。かくして仏教は諸行無常の自然的な感覚を諸行無常の徹底した智慧にまで徹底自覚せしめようとするのである。かくして諸行無常はいわば前仏教的な体験から仏教的な思想にまで高められる。人間の現実を深く見詰め、仏教の思想を深く味わった親鸞に無常感がなかったとは考えられない。しかも彼はこの無常感にとどまることができなかったのである。何故であるか。
 無常感はそのものとしては宗教的である
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