ことのない自己がいかにして自己の真実を語り得るのであるか。自己が自己を語ろうとすることそのことがすでに一つの煩悩ではないか。親鸞が全生命を投げ込んで求めたものは実にこのただ一つの極めて単純なこと、すなわち真実心を得るということ、まごころに徹するということであった。信仰というものもこれ以外にないのである。煩悩において欠くることのない自己が真実の心になるということは、他者の真実の心が自己に届くからでなければならぬ。そのとき自己の真実は顕わになる。われが自己の現実を語るのではなく、現実そのものが自己を語るのである。ここに知られる真実は冷い、単に客観的な真理ではない。この真実にはまごころが通っている。まごころは理性ではなくむしろ情のことである。我々は人間的真理を二と二との和は四であるという数学的真理を知ると同じように知ろうとするのではなく、またそれはそのように知られるものでもない。
親鸞の文章を読んでむしろ奇異に感じられることは、無常について述べることが少ないということである。これはとかく感傷的な宗教のように考えられている彼の思想においてむしろ奇異の感を懐かせることであるが、しかしこれが事実
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