生ずるものは、それが極めて真面目な道徳的反省であっても、後悔[#「後悔」に傍点]というものに過ぎず、後悔と懺悔とは別のものである。〔欄外「後悔はそれぞれの行為、懺悔は全存在にかかわる。」〕後悔はわれの立場においてなされるものであり、後悔する者にはなおわれの力に対する信頼がある。懺悔はかくのごときわれを去るところに成立する。われはわれを去って、絶対的なものに任せきる。そこに発せられる言葉はもはやわれが発するのではない。自己は語る者ではなくてむしろ聞く者である。聞き得るためには己れを空しくしなければならぬ。かくして語られる言葉はまことを得る。およそ懺悔はまことの心の流露であるべきはずである。しかるにまことの心になるということはいかに困難であるか。自己を懺悔する言葉のうちにいかに容易に他に対してかえって自己を誇示する心が忍び込み、またいかに容易に罪に対してかえって自己を甘やかす心が潜み入ることであるか。
[#ここから1字下げ]
浄土真宗に帰すれども
真実の心はありがたし
虚仮《こけ》不実のわが身にて
清浄の心もさらになし
[#ここで字下げ終わり]
と親鸞は悲歎述懐するである。煩悩の具わらざる
前へ 次へ
全78ページ中6ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
三木 清 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング