よりも美的である。はかないものは美しい。美には何かはかなさというべきものがある。「あだし野の露きゆる時なく、鳥部山の烟《けむり》立ちさらでのみ住みはつるならひならば、いかに物のあはれもなからん。世はさだめなきこそいみじけれ」と『徒然草』の著者は書いている(第七段)。いつまでも生きてこの世に住んでいるということが人間のならいであったら、実に無趣味なものであろう。老少不定、我々の命がいつ終わるという規定の全くない世であるが、そこが非常に面白いのである、というのである。無常は美的な観照に融け込む。仏教は特に平安朝時代の文学においてその唯美主義と結びつき、かつこれに影響を与えたのである。かくして無常感は唯美主義と結びついて出世間的な非現実主義となった。『方丈記』の著者のごときもその著しい例である。
 これに対して親鸞はどこまでも宗教的であった。宗教的であった彼は美的な無常思想にとどまることができなかった。次に彼の現実主義は何よりも出家仏教に満足しなかった。無常思想は出世間の思想と結びつく、これに対して彼の思想の特色は在家仏教にある。無常の思想はもとより単に美的な観照にとどまるものではない。それ
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