修め難く、入り難い。「末法のなかにおいてはただ言教のみありてしかも行証なけん。」というのは、その法が時機不相応の聖道の教であるためであり、かかる時こそ浄土の教のいよいよ盛んになるべきときである。「ひそかにおもんみれば、聖道の諸教は行証ひさしく廃《すた》れ、浄土の真宗は証道いま盛なり」と親鸞は記している。
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 道綽によれば、聖道の修業は、第一に大聖を去ること遙遠なるが故に、第二には理深く解微なるが故に、成就しがたいのである。『安楽集』上三十八丁。
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 ところで浄土他力の教が[#「浄土他力の教が」は底本では「※[#「冫+争」、413−下−19]土他力の教が」]末法時に相応する教であるとすれば、そのことはまさにこの教を相対的なものにすることになりはしないであろうか。実際、聖道の諸教は、それが単に在世正法の時にのみ相応して、像末法滅の時には相応しないという故をもって、単に相対的なものと見られ、方便の教に過ぎないと考えられたのである。親鸞は教の歴史性を強調した。これは歴史主義であり、歴史主義は一個の相対主義ではないか。他力の教がもし相対的なものである
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