とすれば、それはもはや真実の教であることができぬ。真理は、真実の教は絶対性を有するのでなければならぬ。他力教の絶対性はいかに示されているのであるか。そしてその絶対性はその歴史性といかにして矛盾することなく、かえって一致するのであろうか。
[#ここから2字下げ]
像末五濁の世となりて
釈迦の遺教かくれしむ
弥陀の悲願ひろまりて
念仏往生さかりなり
[#ここから1字下げ]
『正像末和讃』の首《はじ》めには次の讃歌が掲げられてある。
[#ここから2字下げ]
弥陀の本願信ずべし
本願信ずるひとはみな
摂取不捨の利益にて
無上覚をさとるなり
[#ここから1字下げ]
この一首は康元二年二月九日夜、夢告に成るものである、と親鸞はみずから記している。時に彼は八十五歳であったが、夢にこの和讃を感得したことが『正像末和讃』一帖の製作の縁由となったのである。このことは末法の自覚と浄土教の信仰とが彼においていかに密接に結びついていたかを示すものであろう。末法の自覚は罪の自覚であり、罪の自覚は弥陀の本願力による救済の自覚であった。
[#ここから2字下げ]
無明長夜の燈炬なり
智眼くらしとかなしむな
生死大海の船
前へ 次へ
全78ページ中38ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
三木 清 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング