る。
 しからば何故に教は行なわれないのであるか。「まことに知んぬ、聖道の諸教は在世正法のためにして、またく像末法滅の時機にあらず、すでに時をうしなひ機にそむけるなり。」と親鸞はいっている。従来の教は聖道自力の教であり、これは釈迦牟尼仏の在世およびその感化力の存した正法時のためのものであって、今日末法の時代においては、この教はこの時代とこの時代における衆生の根機とにもはや相応せず、かくして時を失い機に乖《そむ》く故にこの教は衰微せざるを得ないのである。これに反して浄土他力の教はまさに「時機相応の法」である。それは末法という時機とこの時代における衆生の根機とに相応する教である。この時代と人間とのために仏は限りない愛をもって弥陀の本願の教を留めおいたのである。「当来の世に経道滅尽せんに、われ慈悲哀愍をもって特にこの経を留めて止住すること百歳ならしめん。それ衆生ありてこの経にあふものは、こころの所願にしたがひてみな得度すべし。」といわれている。道綽は『安楽集』に「当今は末法にして、これ五濁悪世なり、ただ浄土の一門のみありて通入すべき路なり。」といっている。もし機と教と時とが一致しないならば、
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