人一人のしのぎなり。」蓮如上人『御一代記聞書』)、宗教はめいめいの問題である。この平等性は各人の罪の意識において成立するのである。自己の真実の姿を深く見つめた者にとって誰が自己は他よりも善人であるといい得るであろう。かく考えることはまだ自覚が足りないためである。自己の罪の自覚において超越的なもの、すなわち末法の教法に触れないためである。「末代の旨際を知り」、「おのれが分を思量せよ」と親鸞はいう。末代のいわれを知り、自己の分限を思いはかる者は、自己を極重の悪人として自覚せざるを得ないであろう。末代の旨際を知るというのは、客観的に現代が末法の時であることを知るということではない。正像末の歴史観は歴史的知識の要約でもなく、また歴史を体系化するための原理でもない。末法の自覚は自己の罪の自覚において主体的に[#「主体的に」に傍点]超越的なものに触れることを意味している。このときには何人も自己を底下の凡愚として自覚せざるを得ないであろう。弥陀の本願はかくのごとき我々の救済を約束している。如来の救済の対象はまさにかくのごとき悪人である。これを「悪人正機」と称している。悪人正機の説の根拠は末法思想であ
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