こではまず末法時の特徴である無戒ということに関連して親鸞の思想のひとつの特色を明らかにしておかねばならぬ。無戒ということは固有の意味においては僧侶についていわれ、元来持戒者であるべき僧侶であって戒を持することがないということを意味している。もし僧侶が無戒であるならば、彼らはいわゆる「名字の比丘」であり、本質的には在俗者と同じでなければならぬ。かくして浄土門の教は僧俗一致の教法である。この教法の前においては僧侶と在俗者とは本来平等である。単に僧俗の差別のみではない、老少の差別、男女の差別はもとより、賢者と愚者との差別も、善人と悪人との差別も、すべて意義を有しなくなる。宗教の前においてはあらゆる者が平等である。あたかも死に対しては貴賤貧富を論ぜず、すべての人間が平等であるように。この平等はもとより宗教的な平等であって、外面的な社会的平等ではない。宗教の前においては社会的差別はもとより道徳的差別も意義を失うところに宗教の絶対性がある。無戒ということの本質はかくのごとき平等性に存している。かくのごとき平等性は人間を「群衆」にしてしまうものではない。念仏は各人のしのぎといわれるように(「往生は一
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