戒として従来の教法がその歴史的意義を喪失してしまったことを意味するのである。かくして自力教から他力教への、聖道教から浄土教への転換は、無戒時というものによって歴史的に必然である。もし単に持戒と破戒とのみであるならば、かかる転換の必然性は考えられない。そのときは破戒はただ持戒へ、従来の正法への復帰であるべきのみであろう。聖道門の自力教から絶対他力の浄土教への転換は親鸞において末法の歴史的自覚に基づいて行なわれ、これによってこの転換は徹底され純化されたのである。『教行信証』化身土巻における三願転入の自督に続いて正像末の歴史観が叙述されているということは、この歴史観に基づく自覚が三願転入の根拠であることを示すものと考えなければならぬ。三願転入にいう三願において、第十九願すなわち修諸功徳の願は自力の諸善万行によって往生せんとするものとして持戒の時である正法時に、第二十願は念仏という他力で、しかし自力の念仏によって往生せんとするものとして正法と末法との中間にある像法時に、また第十八願は絶対他力として末法時に相応するということができるであろう。
三願転入については次の章において論じたいと思う。こ
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