し 発菩提心いかがせん」という和讃は、この意を詠じたものであるであろう。無戒が破戒以下であることが自覚されねばならぬ。
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「しかれば穢悪濁世の群生、末代の旨際をしらず、僧尼の威儀をそしる。今の時の道俗、おのれが分を思量せよ。」と親鸞はいっている。
末代の道俗
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しかし他面、無戒は破戒と同じではない。末法時の特徴は破戒でなくて無戒であり、破戒はむしろ像法時の特徴である。正法、像法、末法は、順を追うて、持戒、破戒、無戒としてその特徴を規定することができるであろう。無戒は持戒とともに破戒でないということにおいて、末法時は正法時に類似している。このことは末法時においては、持戒および破戒の時期である正法像法とは全く異なる他の教法[#「他の教法」に傍点]がなければならぬことを意味する。このとき教法と考えられるものは正法時、したがってまた像法時とは全く別の、むしろ逆のものでなければならぬ。末法が無戒であるということは、この時代においてかくのごとき他の教法が現われねばならぬことを意味する。無戒の末法は教法のかくのごとき転換を要求する。無戒の時はまさに無
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