されねばならぬ。親鸞は例えば肉食妻帯を時代の故に当然であるとして弁護しようとはしなかったであろう。むしろ彼はこれを慚愧に堪えぬことと考えたに相違ない。しかるに無戒は無戒としては無自覚である。かかる無自覚の状態は自覚的にならなければならぬ。無戒が無自覚である場合、無戒は破戒でないという理由でこれを弁護することは、禽獣《きんじゅう》の生活を人間の生活よりも上であるとすることに等しいであろう。無戒はいかにして自覚的になるのであるか。無戒の根拠を自覚することによってである。しかるにこの根拠は正像末の歴史観にほかならない。無戒という状態の成立の根拠は末法時であるということである。しかるに末法の自覚は必然的に正法時の自覚を喚び起す。これによって正像末の歴史観が成立する。そして正法時の回想は自己が末法に属する悲しさをいよいよ深く自覚させるのである。無戒は破戒以下であるということ、破戒の極限であるということが自覚される。しかも正法時を回想するにしてもそしていかにこれに合致しようとするにしても、自己が末法に属することはいかにもなし難い。「正法の時機とおもへども 底下の凡愚となれる身は 清浄真実のこころな
前へ 次へ
全78ページ中31ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
三木 清 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング