は鎌倉時代の仏教の著しい特色をなしている。それはこの時代における宗教改革の運動、新宗教の誕生にとって共通の思想的背景となっている。法然や親鸞、日蓮は言うまでもなく、栄西や道元のごときも何らか末法思想をいだいていた。法然上人の反対者であった明恵上人や解脱上人ごときですら末法思想を持っていた。ただ、末法時をいかに見るか、またいかにこれに処すべきかについては、これらの人々の見解は一様ではなかった。
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 正像末史観の重心は末法にある。それは末法史観[#「末法史観」に傍点]にほかならない。親鸞の『正像末法和讃』を見るに、その五十八首のことごとくが末法に関係して、正法像法をそれ自身として歌ったものは一つもない。末法は未来に属するのではなく、まさに現在である。この現在の関心において過去の正法時および像法時も初めて関心の中に入ってくるのである。現在がまさに末法時であるというところから浄土[#「浄土」に傍点]は未来に考えられることになる。
 彼はどこまでも深く現在[#「現在」に傍点]の現実の自覚の上に立った。いたずらに過去[#「過去」に傍点]の理想的時代を追うことは彼のことではなか
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