史がいかにあったかを知ろうとする。しかも現在が真に問題になるのは、何を為すべきかが、したがって未来[#「未来」に傍点]が問題になってくることによってである。現在の意識は現在が末法であるという意識である。死を現在に自覚し、いかにこれに処すべきかという自覚が人生の全体を自覚する可能性を与えるごとく、現在は末法であるという自覚が歴史の全体を自覚する可能性を与えるのである。
現在が末法の時であるという意識は親鸞にとって正像末三時の教説によって、単に超越的に与えられたものではない。それは彼の時代の歴史の現実そのものの中から生じたものである。彼の時代は政治的動揺の激しく、戦乱の打ち続いた時代であった。宗教界もまた決して平穏ではなかった。承元の法難には親鸞も連累した。この事件において彼の師法然は土佐に流され、彼自身は越後に流された。いわゆる「闘諍堅固」は彼にとって切実な体験であった。彼の心を何よりも痛めたのは高潔であるべきはずの僧侶の蔽いがたい倫理的頽廃であった。時代の歴史的現実わけても宗教界の状態は、まじめな求道者をしてもはや世は末であるということを感じさせずにはおかなかったであろう。末法思想
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