能的なものがひとりでに現実的になるのではない。弩が機発するのは射る者があってこれを発するからである。〔欄外「弩に可発の機がなければ、いかにこれを発しようとしても発し得ないであろう。衆生《しゅじょう》にまさに生ぜんとする善がある故に仏が来たりて応ずればすなわち善生ず。応は赴の義。」〕しかしこの可能性は単に静的に含蓄的であるということではない。機は動の微、きざしである。まさに動こうとして、まさに生ぜんとして、機である。〔欄外「教法化益によりて発生さるべき可能性あるもの。」〕第二に、機は機関という熟字に見られるごとく関の意味を有する。関とは関わる、関係するということであって、一と他とが相対して相関わり、相関係することである。衆生に善あり悪あり、共に仏の慈悲に関する故に、機は関の意味を有するのであり、すなわち教法化益に関係し得るもの、その対者たり得るものの意である。もし衆生がなければ、仏の慈悲も用いるに由なく、衆生ありてまさに慈悲の徳も活くことができる。応は対の義。一人は売ろうとし、一人は買おうとし、二人相対して貿易のことがととのうごとく、〔欄外「主客相合うて売買が成立つ。」〕衆生は稟《う》け
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