ようとし、仏は与えようとし、相会うところで摂化済度のことが成るのである。これが食い違うと摂化のことはととのわない。〔欄外「須宜」〕そこで第三に機は機宜という熟字に見られるごとく、宜の意味を有している。関係するものの間にちょうど相応した関係があることをいう。例えば函と蓋とが、方なれば方、円ければ円、恰好相応して少しもくいちがいのないように、無明の苦を抜かんと欲せば、正しく悲に宜しく、法性《さとり》の楽を与えんと欲せば、正しく慈に宜し。衆生に苦あり、あたかも仏の抜苦の悲に宜しく、衆生に楽なし、あたかも仏の与楽の慈に宜しく、仏の慈悲はよく衆生に相応しているのである。機は教法化益を施すに便宜あるものの意。かくして機と教、機と法とは相対する、両者の関係は動的歴史的。
その機は何らかの根性を有する故に根機と称せられる。いっさいの衆生、過去・現在の因縁宿習を異にし、その面貌の異なるごとく、その根性別なり、〔欄外「善悪智愚の別」〕したがって教法をこうむるべき機として千差万別なり、しかるに教法化益もし機に乖《そむ》けば、その益あることなし、故に仏は千差の方便を尽し、万別の教法を施せり。性得の機。機は可
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