在を実存と呼ぶならば、機とは人間の実存にほかならない。自覚とは単にわれがわれを知るということではない。われはいかにしてわれを知ることができるか。われがわれを知るというとき、われはわれを全体として知ることがない。なぜなら、われがわれを知るという場合、知るわれと知られるわれとの分裂がなければならず、かように分裂したわれは、その知られるわれとして全体的でなくかえって部分的でなければならぬ。したがってその場合、自覚的なわれよりもむしろ主客未分の、したがって無意識的な、無自覚的なわれが、したがって知的な、人間的なわれよりも、実践的な、動物的なわれがかえって全体的なわれであるともいい得るであろう。
機という字は普通に天台大師の『法華玄義』に記すところにしたがって、微・関・宜の三つの意味を有するとされている。それはまず第一に機微という熟字に見られるごとく微の意味を有する。弩《いしゆみ》に発すべき機がある故に、射る者これを発すれば直ちに箭《や》が動く。未だ発現しないで可能性としてかすかに存するすがたが微であり、機である。可能的なものはいまだ顕わではなく含蓄的に微《かす》かに存するのである。しかし可
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