く読まれているようである。先生は西洋哲学輸入後日本において初めて独創的な哲学を組織された方であるが、また西洋の哲学で先生の手によって初めて我が国に紹介されたものも尠《すくな》くない。ベルグソンの哲学、リッケルトやコーヘン等の新カント派の哲学、ブレンターノやマイノングなどの独墺《どくおう》の哲学、フッサールの現象学などからバルトの弁証法的神学などに至るまで、先生はその最も有力な紹介者であった。またライプニッツを初め、先生によってその新しい意味を発見されて、我が国に普及するようになった西洋の哲学者も多い。先生の読書研究の範囲は広く、私どもの学生時代には、コーヘンなどの影響もあったのであろう、数学をよく勉強していられたようであった。多分先生の発議に依るものであろう、理科の園正造博士を招いて文科の学生のために集合論や群論の講義が行われたが、そのとき先生も出席して熱心に聴講されていた。その後或る時期にはマルクスなどを研究されたことがあり、近年はまたランケなど歴史の書物をよく読んでいられるようである。先生の本の読み方が独特のものであることは、大学での演習においても窺《うかが》うことができた。それは細部に亙って客観的に一々調べてゆくというのでなく、先生自身の立場から直観的にその本質的な内容を掴《つか》むという風であった。このような主観的な読み方がよくその本の客観的な本質に触れているのは驚くべきほどで、先生の直観力の深さを示すものであろう。先生にはまた本そのものに対する鋭い勘があって、善い本、有益な本、読まねばならぬ本を勘で見分けられることができるようである。その勘がまた実に正確である。かような直観は天分にも依るであろうが、また永い間多くの本に親しむことによっておのずから養われてくるものである。京大の哲学研究室が現在その方面で恐らく日本で最も良い蔵書を持っているのも、先生が教授時代に熱心に系統的に蒐集《しゅうしゅう》されたおかげであろうと思う。京都にいた時分、その研究室に本を借りに行くと、書庫に入って本を探していられる先生をよく見かけたものである。
 先生の魂には何か不敵なものがある。お宅に訪ねた時など、有名な哲学者の名を挙げて、どうかと伺うと、いきなり「あれは駄目だ」という風に、ずばりと云い切られる。その簡単な批評がまたよく肯綮《こうけい》に当っていた。私は先生の直観の鋭さに敬服すると共に、先生のものに怯《お》じない不敵な魂を感じた。他の書物など、全く眼中にないようである。それでいて先生はまた実によく書物を読んでいられる。お宅に伺うとよく読みかけの本が机の上に置いてあって傍の紙片にその中の一二の重要な句が抜き書きされていたり、或いはそれを読みながら先生が思い附かれたことなどが書き附けられている。先生のメモはいつもドイツ語で書かれていたようである。
 書物に対すると同様、先生の人物評もなかなか鋭い。それも一言でずばりとその本質を云い当てる確かさは、恐ろしいほどである。他の人など、まるで問題でないといった風である。そのような不敵なところ、烈しいところがある。一面、先生にはまた実にやさしいところ、涙もろいところがある。或る日、演習の時間に一人の学生が自分の当る番であるのに予習をしてきていなかった。先生は怒って「お前のような者は学校をやめてしまえ」と突然大きな声で云われた。ところが先生の眼を見ると、心なしか潤んでいた。私は先生の烈しい魂に接すると共に、先生の心の温かさを知って、目頭が熱くなるのを覚えた。先生はその不敵さ、その烈しさを内面に集中することに努められている。そして世間に対しては万事控え目で、慎しみ深く、時にはあまりに控え目に過ぎると思われることさえある。久し振りでお目にかかると「何某はどうしているか」、「何某はどうしているか」と、弟子たちのことを忘れないで尋ねられる。先生は実に弟子思いである。またお訪ねすると、時にはいきなり「どうだ、勉強しているか」と問われることがある。そんな時、自分が怠けてでもいると、先生のこの一問は実に痛い。しかし先生が私どものことを心配していて下さる心の温かさがわかっているので「これは勉強しなければならん」と考えて、私は先生のところから出てくるのである。
 大学院にいた頃であったと思う。或る日、今は亡くなられた深田(康算)先生をお訪ねして、例の如く酒が出て先生が少し酔ってこられた時であった、話が西田先生のことに及ぶと、先生は「西田君はエスプリ・ザニモオの多い人ですね」と云われたのを、私は今も思い出す。嘗《かつ》て私はそれについて『文芸春秋』に随筆めいたものを書いたことがある。実際、西田先生には何かデカルトのいうエスプリ・ザニモオ(動物精気)のようなものが感じられる。そしてそれが先生のあのエネルギーの根源であるように
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