西田先生のことども
三木清
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)謦咳《けいがい》
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(例)あか/\
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一
大正六年四月、西田幾多郎博士は、東京に来られて、哲学会の公開講演会で『種々の世界』という題で、話をされた。私は一高の生徒としてその講演を聴きに行った。このとき初めて私は西田先生の謦咳《けいがい》に接したのである。講演はよく理解できなかったが、極めて印象の深いものであった。先生は和服で出てこられた。そしてうつむいて演壇をあちこち歩きながら、ぽつりぽつりと話された。それはひとに話すというよりも、自分で考えをまとめることに心を砕いていられるといったふうに見えた。時々立ち停って黒板に円を描いたり線を引いたりされるが、それとてもひとに説明するというよりも、自分で思想を表現する適切な方法を摸索していられるといったふうに見えた。私は一人の大学教授をでなく、「思索する人」そのものを見たのである。私は思索する人の苦悩をさえそこに見たように思った。あの頃は先生の思索生活においてもいちばん苦しい時代であったのではないかと思う。その時の講演は『哲学雑誌』に発表されて、やがてその年の秋出版された『自覚に於ける直観と反省』という劃期《かっき》的な書物に跋《ばつ》として収められたが、この本は「余の悪戦苦闘のドキュメント」であると、先生自身その序文の中で記されている。
その年、私は京都大学の哲学科に入学して、直接西田先生に就いて学ぶことになった。私がその決心をしたのは、先生の『善の研究』を繙《ひもと》いて以来のことである。それはこの本がまだ岩波から出ていなかった時で、絶版になっていたのを、古本で見附けてきた。その頃先生の名もまだ広く知られていなかったが、日本の哲学界における特異な存在であるということを私は聞かされていた。その後先生の名が知れ亙《わた》るようになったのは、当時青年の間に流行した倉田百三氏の『愛と認識との出発』の中で先生のこの本が紹介されてからのことであったように記憶している。『善の研究』は私の生涯の出発点となった。自分の一生の仕事として何をやっていいのか決めかねていた私に、哲学というものがこのようなものであるなら、哲学をやってみようと決めさせたのは、この本である。その時分は、一高の文科を出た者は東大へ進むことが極まりのようになっていたが、私は西田先生に就いて勉強したいと思い、京大の哲学科に入ろうと考えた。高等学校時代にいろいろお世話になった速水滉先生に相談したら、賛成を得た。かようにして私は友人と別れて唯ひとり京都へ行ったのである。中学を出て一高に入学した時にも、私は友達と離れて一人であった。つねに一人歩くことが何か自分の運命であるかのように思われて淋しかったが、それでもあの時はただ漠然とした憧《あこが》れで田舎から東京へ上ったのに、今度は逆に東京から京都へ下ることであったにしても、はっきりした目標があったので勇気を与えられた。
その時分は九月の入学であったが、七月の初め、私は帰省の途次、速水先生の紹介状を持って洛北《らくほく》田中村に西田先生を訪ねた。どんな話をしたらいいのか当惑していると、先生は出てこられるとすぐ「君のことはこの春東京へ行った時速水君からきいて知っている」といって、それから大学の講義のこと、演習のことなどについていろいろ話して下さった。哲学を勉強するには先ず何を読めばいいかと尋ねると、先生は、カントを読まねばならぬといって『純粋理性批判』を取り出してきて貸して下さった。その頃は世界戦争の影響でドイツの本を手に入れることが困難で、高等学校の友人の一人がレクラム版の『純粋理性批判』のぼろぼろになったのを古本屋で見附けてきて、得意気にいつも持ち廻っているのを、私どもは羨《うらや》みながら眺めていたというような有様であった。
最初にお目にかかったとき親切にして戴《いただ》いた印象があったからであろう、その後私は学生時代、月に一二度は先生のお宅に伺ったが、割に気楽に話をすることができた。先生は自分から話し出されるということが殆どなく、それでせっかく訪ねてゆきながら、どんな質問をしていいのか迷って黙っているうちに半時間ばかりも時が経って、遂に自分で我慢しきれなくなり「帰ります」というと、先生はただ「そうか」と云われるだけである、――そんなことが多いと学生仲間で話していた。考えてみると、あの時代の先生は思索生活における悪戦苦闘の時代で、いわば哲学に憑《つ》かれていられて、私どもたわいのない学生の相手になぞなっていることができな
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