かったのであろう。私は通学の途中、先生が散歩していられるのを折々見かけた。太い兵児帯を無造作に巻きつけて、何物かに駆り立てられているかのように、急いで大胯《おおまた》で歩いて行かれた。それは憑かれた人の姿であった。先生の哲学のうちにはあの散歩の時のようなひたむきなもの、烈しいものがあると思う。

        二

 西田先生の講義はいつも午後にあった。土曜日の午後の特殊講義は、京都大学の一つの名物になっていて、その時には文科の学生ばかりでなく卒業生も、また他の科の人々も聴きに来るので、教室はいつもいっぱいであった。私も入学してから外国に留学するまで五年間、先生の講義には休まないで出席した。先生はいつも和服であった。そして教壇をあちこち歩きながら、ぽつりぽつりと話された。時々立ち停って黒板に円を描いたり線を引いたりして説明される。その様子は、あの東京の哲学会で私が初めて先生の講演を聴いた時と同じであった。時には話がとだえて、教壇の上で黙って考え込まれる。そうかと思うと急に思索が軌道に乗ったかのように、せきこんで話される。いつもうつむいて話をされたが、急に目を上げて強度の近眼鏡の底から聴衆の方を見られることがある。それは話が一段落したか、講義が終ったしるしである。二時間の講義であったが「今日は疲れているからこれでよす」と云って、一時間ばかりでしまわれることもあった。その言葉にはまたそれで私たちの心を打つものがあった。きっと先生は前夜おそくまで勉強されていたのだな、と私たちはすぐ感じることができたからである。
 先生の講義は教授風のものとはまるで違っていた。それは何か極ったものをひとに説明してきかせるというようなものでなく、ひとを一緒に哲学的探求に連れてゆくというようなものであった。たいていの人が先生の書物は難解であるという。しかしその強靱《きょうじん》な論理を示す文章の間に、突然魂の底から迸《ほとばし》り出たかのような啓示的な句が現われて、全体の文章に光を投げる。それまで難解をかこっていた読者は急に救われたかのような思いがして、先を読み続けてゆく。先生の講義もやはり同じようであった。先生の本を読んでわからなかったことが、ぽつりぽつりと講義をされる先生の口から時々啓示のように閃《ひらめ》いて出てくる言葉によって突然はっきりわかってくることがある。先生の座談が私にはやはりそうであった。恐らく先生は論文を書いてゆかれるうちに、講義をしてゆかれるうちに、ひとと座談をされるうちに、初め自分に考えていられなかったような思想の緒を見出されるのではあるまいか。『自覚に於ける直観と反省』以来、文字通りに悪戦苦闘しながら先生が体系家として生長された時代に、私は先生の学生であったことを幸福に思う。先生のあの独特な講義の仕方を考えて、私は特にそのことを感じるのである。それは単に説明を与えられることでなく、先生の場合、その哲学がどのようにして作られてゆくかを直接に見ることであった。
 弟子たちの研究に対しては、先生はめいめいの自由に任されて、干渉されることがない。その点、無頓着《むとんじゃく》に見えるほど寛大で、一つの型にはめようとするが如きことはせられなかった。先生は各人が自分の個性を伸ばしてゆくことを望まれて、徒《いたず》らに先生の真似をするが如きことは却《かえ》って苦々しく感じられたであろう。こんなことをやってみたいと先生に話すと、先生はいつでも「それは面白かろう」といって、それに関聯《かんれん》していろいろ先生の考えを述べて下さる。そんな場合、私は先生に対して善いお父さんといった親しみを覚える。先生にはつねに理解がある。誰でも先生の威厳を感じはするが、それは決して窮屈というものではない。先生を訪問して、殆ど何も話すことができないで帰ってくる学生にしても、決して窮屈を感じたのではない。そんなところに先生の豪《えら》さがあると思う。先生は自分の考えを弟子たちに押し附けようとはせられない。自分から進んで求めるということがなく、しかし来る者を拒むということがない。直接先生から教を受けた者はもちろん、そうでない人々にも先生を師と仰ぐ者が多いのは、先生の哲学の偉大さに依ることは云うまでもないが、こうした先生の人柄にも依ることであろう。

 先生の哲学は単にその天才にのみ依るものではない。先生はたいへんな勉強家である。七十歳を越えられた今日なお絶えず新しいものを勉強されているのである。勤勉が思想家の重要な徳であるということを私は先生から学んだ。哲学者と称する者の陥り易い瞑想癖《めいそうへき》から彼を救い、その瞑想を思索に転じ、思索のうちに瞑想的なものを活かさせることができるのは勤勉である。先生は非常な読書家でもある。絶えず外国の哲学界に注意し、新刊書なども広
前へ 次へ
全6ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
三木 清 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング