思われるのである。先生は痩《や》せてはいられるが、なかなか精力的で、七十歳を越えられた今日でも、客と一緒に出された菓子や果物をぺろりと平げられ、茶をがぶがぶと飲まれる。あの強い精神力を示す執拗《しつよう》な思索のうちには何かこのような肉体的なものがあり、それが先生の文章の迫力ともなっているのではないかと思う。滅多に外に現わされることはないが、先生は恐らく喜怒愛憎の念が人一倍烈しい方のようである。否、そのような情念の底に更に深く、先生の心の奥には厚い厚い闇があるのではないかと思う。先生はよく「デモーニッシュなもの」ということを云われる。これは先生において哲学上の単なる概念ではなくて深い体験である。先生の魂の底にはデモーニッシュなものがあり、それが先生を絶えず思索に駆り立てている力である。思索することが原罪であるということを先生は深く深く理解されているのではないかと思う。先生の哲学はその闇を照し出そうとする努力であり、その闇の中から出てくる光である。その闇が深ければ深いほど、合理的なものに対する要求も烈しいであろう。先生の哲学は単なる非合理主義でないと同様、単なる直観主義でもない。それは飽くまでも合理的なもの、論理的なものに対する烈しい追求である。闇の中へ差し入る光は最も美しい。先生の哲学の魅力も、先生の人間的魅力も、この底知れぬ闇の中から来るのである。四高の教授をしていられた時代、先生はずいぶんロシヤの小説を読まれたように聞いている。今でも先生はドストイェフスキーが好きで、深く共鳴されるものがあるようである。それは単なる神秘主義ではない。先生のいわゆる「歴史的物質」の問題である。
三
先生が論文を書かれる時には、毎日きまって朝の間に二三枚ずつ書いてゆかれるということである。それは長篇作家が小説を書いてゆく仕方に似たところがある。実際、先生は創作家と同じような気持で論文を書かれるのではないかと思う。毎日きまって少しずつ書いてゆかれる先生の論文はまた先生の思索日記でもある。それには始めがないように終りもない。先生の書物は、第一章、第二章という風に出来ている普通の書物とは全く趣を異にしている。嘗て先生はそのように第一章、第二章という風に区分されるような本を書かれたことがなく、書かれるものはみな論文である。その論文が集まって一冊の書物が出来る。しかしそれは決して単なる論文集ではない。先生は、一つの論文を書き終えられるといつでもすぐ何か書き足りないものがあるのを感じられて、その書き足りないものを書こうとして、また書き始められてやがて次の論文が出来るというのではないかと思う。先生の論文には終りがないのである。芸術家の活動は無限であって、その作品は完成されることがないというフィードレルの言葉を先生はよく引用されるが、先生の著作がちょうどそのようなものではないかと思う。先生は多くの論文を書かれながら結局一つの長篇論文を書かれているのである。そしてそれは完結することのないものである。それは多くの小説を書きながら一生の間結局一つの長篇小説を書いているにほかならぬ作家の場合に似ている。先生はいろいろなテーマについて書かれながら、結局一つの根本的なテーマを追求されているのであって、その追求の烈しさと執拗さとはまことに驚嘆のほかない。もちろん、『善の研究』このかた最近の論文に至るまで、先生の哲学には発展があり、その発展に注目することは大切である。しかしそこにまた根本的に連続的なものがある。先生は一面時代に対して極めて敏感な思想家である。先生には新しい流行を作ってゆかれるようなところがある。その意味で先生には、すぐれたジャーナリストの感覚があるということもできる。しかし先生の如く時代に対して敏感で、時代から絶えず影響されながら、先生の如くつねに一つのものを追求している思想家は稀《まれ》である。そこに先生の哲学の新しさと共に深さがある。時代に敏感な者はとかく浅薄になる、自分に固執する者は停頓《ていとん》しがちである。先生はそのいずれでもない。生命というものは環境から限定され逆に環境を限定するものであるとは、先生がこの頃いつも述べられることであるが、それはまさに先生の哲学そのものの姿である。先生の哲学は先生独特の文章のスタイルを離れて考えられないであろう。ヘーゲルが彼独特のスタイルをもって考えたように、西田先生も先生独特のスタイルをもって考えられているのである。先生においては文章のスタイルがそのまま哲学である。そのスタイルを離れてその思想を表現することは不可能に近いであろう。
先生の哲学には東洋的直観的なものがある。それを先生は禅から学んでこられたのであろう。しかしそれは禅からのみ来ているものではないように思われる。先生にはまた『愚禿親
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