鸞《ぐとくしんらん》』というような文章がある。また本居宣長《もとおりのりなが》の思想などにも共鳴を感じられるものがあるようである。先生の思想における東洋的なものは、先生自身が体得された独自のものであるというのが正しいと思う。そこに先生の哲学の新しさがある。それはゲーテなどにも通ずるところのあるものである。このごろの禅の流行に対しては、先生はむしろ苦々しく思っていられるのではあるまいか。先生の目差していられるのは独自の日本的な哲学である。しかし先生はいつも「西洋の論理というものを突き抜けてそこに達しなければならぬ」と云われるのである。「東洋の書物は修養のために読むべきもので、哲学をやるにはやはり西洋哲学を勉強しなければならぬ」と先生は若い人に教えられる。学問としての哲学をやるには西洋哲学を研究しなければならぬ、けれども哲学が単なる学問以上のものである限り、東洋思想を身につけることが大切である、という意味であろう。私は哲学における深さというものは結局人間の豪《えら》さであると考える。深さというものは模倣し得るものでなく、学び得られるものでもない。西田哲学の深さは先生の人間的な豪さに基いている。学問というものを離れて人間として考えても、先生は当代稀に見る人物である。今日の日本において、各界を通じて、豪い人物と感心するのは西田先生と幸田露伴先生とである、と或る友人が私にいったことがある。
 私の学生時代、先生はいつも和服で靴を履いて大学へ来られたが、その様子はまるで田舎の村長さんか校長さんかのようであった。その先生が教室ではマイノングの対象論とかフッサールの現象学とか、その頃の日本ではあまり知られていなかった西洋の新しい哲学について講義されるのである。そのように先生には極めて田舎者であると共に極めて新しいところがあった。マックス・ヴントは、ソクラテスはアッチカの農民の伝統的精神を代表したといっている。そのソクラテスにはまた当時外国からアテナイに入って新しい学問として流行したソフィストに似たものがあった。西田先生の哲学は日本においてソクラテスのような地位に立っていると見ることもできるであろう。ソクラテスは単に伝統的精神に止まったのでなく、また単なるソフィストでもなかった。彼はギリシアの古典的哲学の出発点となったような全く新しい独自の哲学を述べたのである。西田先生は東洋思想と西洋哲学との間に通路を開くことによって全く新しい日本的哲学を作られたのである。

        四

 西田先生は、世事に疎《うと》いいわゆる哲学者ではない。人生の種々の方面について先生が深い理解を持っていられるのを知って驚くことがしばしばある。殊に停年で大学を退かれて以来、義務的な負担が軽くなったせいもあろうか、先生は社会の問題や政治の問題についてよく話されるようになった。鎌倉に別荘が出来てから、先生は夏と冬の数カ月をそこで過されるのであるが、お訪ねすると、先ず話に出るのは時局のことである。いつも哲学の問題に頭を突き込んでいられる先生としては、せめて人に会った時には哲学を離れて他の事柄について話したいという気持にもなられるのであろう。しかし先生が時事問題を論じられるのは単なる傍観者としての態度ではない。先生の話は次第に熱を帯びてくる。すると先生は袖をまくしあげて論じられるという風で、その口吻には何か志士的なものさえ感じられる。先生は明治時代の善いものを持っていられるのだな、と私は感じるのである。時事問題に対する先生の観察と批評は鋭くて、正鵠《せいこく》を得ているものが多いと思う。近衛公や木戸侯は先生の学習院時代の教え子であるためであろう。氏等が重臣のポストにつかれて以来、先生の時局に対する関心はいよいよ深くなったようである。例の調子で近衛公や木戸侯などの人物をずばりと批評される言葉もなかなか興味があるが、老いてなお青年のような若さをもって国を憂えていられる先生の熱情に対しては頭がさがるのである。
 先生はいろいろなことに関心と理解とを持ちながら、つねに一つのものを追求されてきた。先生には道草を食うことがなかった。その随筆など立派なものであるが、そのような才能を持ちながら、先生は滅多に随筆を書かれることがない。お目にかかるといつも「まだまだこれからだ」と云われる。こうして先生は倦《う》むことなくいちずに一つのものを追求されている。私など道草ばかり食っている者は恥しい次第である。先生から戴《いただ》いた軸に先生の歌を書いたものがある。
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あたごやま入る日の如くあか/\と燃し尽さんのこれる命
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という。先生の心情がよく写されていると思う。



底本:「読書と人生」新潮文庫、新潮社
   1974(昭和49)年10月30日発
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