客観的であらうとする辞書は何よりも先づ正確でなければならぬが、辞書の正確といふこともなかなか問題である。新聞の記事は、こと、自分に関する限り、たいていどこか間違つてゐるものであるが、それが他人のことになると、悉く正確であるかのやうな錯覚を起させる。辞書もまた同様の錯覚を起させ易い性質をもつてゐるのである。
 辞書の客観性といふことは一見簡単な事柄のやうで、実は複雑な問題である。語学や自然科学の辞書のやうな場合にはともかく客観性の基準が定められ得るにしても、社会科学、更に哲学になるとそれはなかなかむつかしいことだ。従つて勢ひ術語の単なる説明に終つたり、種々の学説をただ形式的に分類して示すに止まつたりすることになる。それが「辞書的客観性」といふものであるのかも知れないが、それが真の客観性であるかどうかは、認識論的にやかましくいへば、いろいろ問題があることであらう。殊に多数の執筆者に依頼して辞書を編纂するといふ場合、統一が失はれないやうにするためには、各執筆者は自分の見解は棄てて、字句の解釈、学説の分類の程度に止まらざるを得ず、従つて特性のないものになつてしまふのである。内容の統一の点からい
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