辞書の客観性
三木清

 私がヴォルテールの『哲学辞書』を買つたのは、たしか大黒屋といふ本屋であつたと思ふ。これは京都ホテルの前にあつた洋書屋で、ホテルに来る外人が主な客であつたらしいが、現在はなくなつてしまつたやうだ。京都で洋書を売つてゐたのは丸善とこことの二軒であつたので、私は学生時代に折々出掛けて行つたが、或る時この本を見出したのである。初めそれを手に取つたとき、ヴォルテールと哲学辞書とがうまく結び附かなかつた。ヴォルテールが辞書を編纂するやうな人と考へられなかつたし、その内容も一見普通の辞書のやうではなかつたので、当時フランスのものについて知識の極めて貧弱であつた私は、実は、半信半疑であつたのだが、ともかくフランマリオンの叢書であるから、信用して買つて帰つた。今思ひ出して恥しい次第である。
 その時分フランス語があまり読めなかつた私は、語学の勉強のつもりで、字引を頼りに永い間かかつてこの本を一通り読んでみた。それからである、辞書についての私の観念が変つたのは。それまで辞書といへば、言葉の意味が分らない時に引くもので、その記述は客観的で筆者の私見など加へらるべきものではないと考へ
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