てゐた。ヴォルテールの哲学辞書はこれとはまるで反対のものであつたのである。項目は彼の立場から極めて主観的に選択され、それについて自分の哲学的見解が甚だ自由に述べられてゐる。その後東京に住むやうになつてから、或る時、京都へ行つたついでに丸善へ寄つたら、この本の英訳書があつたのも、何か妙な縁であるやうに思はれた。
 辞書は引くもので、読むものではないといふのが通念であらう。だが私は今、この考へ方を改めて、辞書は読み物であり、しかも恐らく最上の読み物の一つであると思つてゐる。仕事に疲れた時、無聊に苦しむ時、辞書を読むのは、なかなか楽しいものである。小型のもの、大型のもの、その時々の心理的状況に応じて適当に取り出すことにする。語学の辞書なども面白い読み物であるといへる。
 高等学校時代には、私は畔柳郁太郎先生から英語を習つたが、先生は生徒に必ずウェブスターとかセンチュリーとかいつた大きな辞書で調べてくるやうに命ぜられた。それを一々引くのは面倒な仕事であつた。そのうへ私どもは誰もそのやうな高価な辞書を自分で持つてゐなかつたので、学校の図書館へ通はねばならなかつたのである。そんなわけで、小さな英語
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