反対するときいつでも、レオナルド・ダ・ヴィンチやゲーテやを指摘するに違いない。いかにもダ・ヴィンチやゲーテなどは生活の広い領域を征服し体験していたに相違ないが、彼らの驚くべき魂は彼らが関係した悉くの領分において一々普通人よりも深い理解をもつことができたのである。彼らの偉大は広さのために深さを失わず、拡張のために充実をなくせず、普及のために熱中に欠けるようなことがなかったのである。私たちは彼らにおいて少くともいわゆるジレッタントに共通な性格の弱さを見出さない。自己の中心を見失った、魂の根強さと心の旺盛な活動とをもっていないジレッタントには、ゲーテが自己発展は自己保存であるといった言葉の正当な意味は理解されそうにもない。
また他の人々は気遣《きづかわ》しげに問う、「一体大きな悪事を自分でなしたことがないものに悪の本当の意味は分っているであろうか。聖者たちの生活は罪の深い意味を見出すためにはあまりに清かったのではなかろうか。」けれど人生は完全としか思えない場合にも罪から全く自由になることができないほど悲しいもののように思われる。聖者たちの偉大なる魂は、私たちには最も正しく、美しく、よく見え
前へ
次へ
全114ページ中90ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
三木 清 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング