る生活の中からも罪と悪とを引出して感ぜずにはおられない深さと鋭さとをもっているように見える。それゆえに彼らの生活には私たちが感じ得る限りでは偸盗《ちゅうとう》や姦淫《かんいん》がなくとも、彼らの魂の深さと鋭さとはそこに偸盗や姦淫を感じ出さずにはいられなかったのではなかろうか。
 罪と悪、寂しみと悲しみ、それらは単に私たちが感じ得る人生の表面においてでばかりでなく、秀れた魂が到り得る人生の本然においてでさえ見出されずにはいられないもののようである。もしそうでないとすれば他力の信仰は畢竟|空言《そらごと》でなければならぬ。しかのみならず、法律でさえ明かに罰するような大罪悪を実際に行った人でなければ真に罪の意識を得ることができず、従って大善人となることが絶対に不可能であるとするならば、人間は善であらんがために必然に悪をなさねばならないこととなり、しかしてその限り人間は決して完成に到達し得ないこととならなければならない。しかるにもし私たちに完成の可能が否定されねばならぬとすれば、私たちの善を求むるということ、一般に生活するということの意義が否定されねばならないと思う。私は現在の人生においては罪
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