我より離し給へ、されど我が意のまゝをなすにあらず、唯みこゝctまゝになしたまへ。」という言葉などに現われた絶対に謙虚な心のみがすべての体験を意味あらしめることができる。自己の罪悪を小賢《こざか》しい智恵と言葉とを弄して弁解するよりも、人生の悪を身に徹して体験したトルストイが、晩年に性慾や結婚やを否定しあるいは額に汗して食うという主義を実行した心持の方がどれほど貴いものであろう。
第二に私の思想は単に外に拡りゆく心よりも内に向って掘り下げてゆく心が私たちには特に必要であるということを主張せんがために力説されるのである。好奇心や虚栄心から自己の経験と知識の領域とを無暗に拡げつつ限りなき運動と動揺とに心を委せて、それらの経験や知識の表面に触れて、それらを自己の魂まで持来して味わない人をジレッタントと呼ぶならば、私はかくのごときジレッタントを退ける。これに反して秀れた魂はどんな瑣末《さまつ》なことに関係してもその本質を体験することができる。それは私たちが無智から出た不注意と無頓着との間に投げ棄てておる事柄においても深い意味をしみじみと味うなおやかさを持っておる。世のいわゆるジレッタントは私に
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