の言葉はただへりくだる心においてなされた深き体験の発表としてのみ意味を有するものである。私が彼らと争おうというのは言葉そのものではなく、その後にはたらいている心情そのものに関してである。酒に狂い女に溺れることそのことを悉く排斥しようというのではない。ただそれらが好奇心や敵愾心や傲慢な心において経験される限り全く無意味であり、従って非難さるべきことであるというのである。「弥陀の本願不思議におはしませばとて悪をおそれざるはまた本願ぼこりとて往生かなふべからず。」といいあるいは「なにごとも、こゝろにまかせたることならば、往生のために千人ころせといはんに、すなはちころすべし。しかれども一人にてもころすべき業縁《ごうえん》なきによりて害せざるなり。わがこゝろのよくてころさぬにはあらず。また害せじとおもふとも、百人千人をころすこともあるべしと、おほせのさふらひしは、われらがこゝろのよきをばよしとおもひ、あしきをばあしとおもひて、本願の不思議にてたすけたまふといふことを、しらざることをおほせのさふらひしなり。」という言葉、もしくは「父よ、若しみこゝろにかなはば[#底本では「かなわば」と誤記]この杯を
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