文終わり]
 けれどそれにもかかわらず私が上の思想を特に高調するゆえんは、多くの場合に誤解される次のような思想に対抗せんがためである。人々は自己の体験の深さと広さとを誇りつついう、「頭で考えられたことが何を知っておるか、凡てのものの本当の意味はそれを自ら体験した後に分ることだ。酒に狂ったことのない者、女に溺れたことのない者、それらの人の語る道徳に何の権威があるか。」いかにも彼らのいうとおりである。そして彼らの言葉はすべての悪を弁護し承認する贖罪《しょくざい》的な言葉としての貴さをさえ持っておるように見える。しかし静かに考えてみるがいい、彼らの言葉の裏には――そして私自身がそうでなかったとは誰も保証のできないことだ。――自分自身の悪を自己の虚栄心や自負心やを損わないために、他人に対して弁解しようとする心が潜んでいないか。あるいは無暗に新しがったり、理由もなく古いものを排斥することそれ自身が非常に偉いことと考える思想が、彼らの言葉の間に隠れていないか。もしくは悪魔の誘惑に自らを強いて試みようという心、従って神を試みようという傲慢な心が、彼らの言葉の背後ではたらいてはいないか。私が思うに彼ら
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