れの全体に向い得る直観においてのみ正当になされるということである。かようにして個性と個性との理解は、語られる点においてではなく語られざる点において深き根柢を見出すがごとき理解である。

     九

 心情の純粋を貴んで体系の完全を尊ばないこの一篇にもなんらかの統一と連絡とが必要であるため、私は最初この一篇に三つの問題を特に重要なものとして課しておいた。すなわち、第一、語られざる哲学の出発点は何であるか。第二、いかにしてよき生活は可能であるか。第三、よき生活とはいかなるものであるか。第一の点についてはすでに考えた。もし語られざる哲学があらゆる問題が遺さるることなく論ぜられ、しかしてそれが十分な連絡をなすことすなわち体系の完全を求めるのであるならば、もしまたそれが精密な論理と証明とによって人を説服しようというのであれば、私がいまここに考察しようとしておる第二の問題、すなわちよき生活の必然的制約としての形式の問題は、最も厳密な論証をもって詳細に論議されることを要する問題であるかも知れない。
 しかしながら語られざる哲学が、概念的知識においてではなくてよき生活においてそれの枢軸を見出し、ま
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