運命などということが結局征服されてしまうことができるか否かを私は知らない。唯一つ私が知っているように思うことは、寂しみや悲しさや運命ということが本当に何を意味しているかは、私たちが生血《なまち》の出るようなまじめな努力をしてそれらを滅ぼそうとした後において初めて理解されることである。単なる概念についてではなくそれらの本質に関しての論議はそれから後になされなければならない。
 現実にあくまで執著しようとするものとそれを超越して永遠なるものを把捉しようとするものとの二つの魂の対立に関係して、私は私の衷に外へ拡ろうとする心と内へ掘ろうとする心との対立を感ぜずにはいられない。一は私の中に住む詩人であり他は私の中に宿る哲学者である。私の詩人はどこまでも延びて行って感覚の美しき戯れの観照に酔おうとしている。私の哲学者はあくまで深く掘り下げて行って闇そのものの真理を認識しようとする。前者は感覚的なるもの、特性的なるものの美しさに憧れ、後者は意志的なるもの、普遍的なるものの真理を求める。一は快活であり他は憂鬱である、一は冗舌であり他は沈黙する。私を知れる人は私についていろいろ異なったもしくは全く反対し
前へ 次へ
全114ページ中73ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
三木 清 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング