を持ち来たすことは不可能である。それに多くの場合私は自己の思いあがっている自負心を傷つけないために、他人によく思われたいという虚栄心を損わないために、もしくはどんな行為でも弁解するような知識を示そうというために、自分自身の行為を弁解していた。しかしながら弁解は知能や弁舌においてではなく、ただ精神と行為とにおいてのみ成功するところのものである。絶対にへりくだる心とそれから出たよき行為とのみが雄弁に弁解することができる。
私は傲慢にも神を試みようとはしなかったか。私は強《し》いて罪悪に身を委せようとする偽悪家を気取ったことはないか。自己の性格の強さを試さんがために私は好んで誘惑に近づいたことがなかったか。好奇心や敵愾心《てきがいしん》から無理に苦い酒に酔ってみようとはしなかったか。しかるに神を試みようという傲慢な心は、自ら求めて接触した悪魔の誘惑に反抗する剛健な心であることができたろうか。
かようにして私は私がかつて経験したまた現に経験しつつある一々の感覚、観念、感情、意志のすべてを、詳細に吟味して行くに従ってそれのあるものは立派に神の装をしておるにかかわらず悪魔の象徴であることを発見
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