を誇りげに語ろうとするとき、懺悔は自己が無智において成立する哲学であることをつつましやかに黙しつつ承認する。
けれど私はこの場合哲学がいかなるものであるべきか、厳密にいえば少くとも私の心が要求しまた私がそれを与える人でありたいと欲する哲学が、いかなるものであるべきかについて、二、三の考察を試みておくことが適当であると思う。
一般に哲学へのあり得べき正しき道として三つのものが指摘し得られる。第一は自己の深き体験から出て来、またそれに向う反省から哲学へ至る道である。私たちがふつう不注意と無感覚との中に投げ棄てている日常の瑣末《さまつ》な出来事をさえも自己の魂の奥底へまで持来して感じ、人生において大切なことは「何を」経験するかに存せずして、それを「いかに」経験するかに存するということを真に知れる人はまことに哲学的に恵まれた人である。彼は多き経験とともに深き経験を欲し、しかして深き経験とは彼にとっては必然的に反省的なる経験である。彼の体験は自ら反省にまで発展し、彼の反省は必然に体験にまで還って来る。哲学への第二の道は哲学史の徹底的な研究の道を通してである。事物の外観に迷わされずしてそれの根
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