であるから。かようにして哲学的生活の第三の段階、すなわち真に正しき形而上学的要求に本《もと》づいた哲学的生活は、自己の本源に還るところ、永遠なるものに対する愛を感ずるところにおいて初めて成立する。これらの事柄に関しては、しかし、これから後幾度となく考うべき機会をもつに相違ない。私はたぶん正当に、第一の段階を個性前の段階、第二の段階を心理的個性の段階、第三の段階を哲学的個性の段階と名づけ得るであろう。
六
私は私の過去の哲学的生活の簡単で殆んど形式的な回顧においてさえあまりに情熱的であったように思う。私の情熱が私をふしぎに寂しく悲しいものにする。私は外に向うべき眼をもって自己の内を見ているようだ。少くとも自分自身を説服しようという無邪気ならぬ心組から何物をも求めようという成心のなかるべき懺悔の心を失いつつあった。懺悔は内に翻された眼によって、そしてその眼は恐らく湿っているであろうが、しみじみと自己を眺めることである。それは他に対しては固《もと》より自己に対してでさえ何物をも教えようとはしない絶対に謙虚なる心である。世のいわゆる哲学が集められ貯えられたる智恵に基礎をもつこと
前へ
次へ
全114ページ中35ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
三木 清 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング