きて踊躍《ようやく》歓喜した。もしこれが哲学であるならば、そしてこれが本当の哲学であるべきであるならば、それは私が要求せずにはいられない哲学であり、また情熱を高めこそすれ決して否定しないところの哲学であると私は信ぜざるを得なかった。それと前後して私が接する幸福な機会をもつことができたスピノザ哲学は、私の心に自然が与えると同じような、けれどもっと純化され透明にされた安静を与えた。以上のすべてのことによっての私の哲学的生活の第三の段階への準備に最後の完成を与え、またある意味では第三の段階そのものに属していたともいうことができるのは、私のカント哲学との接触であった。自己の衷なる理性、もしくは真の自己そのものの自覚、しかしてそれより生れる人格の品位に対する畏敬、これらのことを正しく私に教えることを得たことが、私をなにより先にカント哲学の学徒たらしめた。カント哲学は、哲学は自己を顧みない論理的遊戯であり、情熱を否定する概念的知識であるところにそれの本質を有すると考えた私の無智な誤解を一掃した。なぜならば、理性とは真の自己そのものであり、無限にして永遠なるものを憧がれ求める情熱の源となるようなもの
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