関係しているのである。私は基督《キリスト》の大いなる言葉について思い廻らそう、「われ地に平和を投ぜんために来れりと思うな、平和にあらず、反って剣を投ぜんために来れり。それ我が来れるは人をその父より、娘をその母より、嫁をその姑※[#「※」は「おんな+章」、第4水準2−5−75、26−2]《しゅうとめ》より分たんためなり。」悪に対して剛き心はやがて善に対してやさしき心である。私は他人に対して反抗するまえに自分自身に対して反抗しなければならない。自己を否定し破壊し尽してのちにおいて初めて、他人に対して何を始むべきかを知るであろう。私は剛情な子供が我儘《わがまま》を押し通そうとしたとき、賢しい母親に妨げられそれがよくないことであることを諭されて自分で会得したとき、一時に母親の膝に泣き挫《くず》れる、その子供の無邪気なそして素直な心をもって大地に涙しながら私の高ぶり反く心を挫《くず》さなければならない。そのとき私の片意地はあたかも地平線に群る入道雲が夕立雨に崩れてゆくように崩れてゆくであろう。
私の活動性と反抗性とが私を懐疑から遠ざけている間に、さらに第三のものが私の心に生れて懐疑を退けようと
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