することをまるで悪事でもするように恐れていた。来る日も来る日も私は二つの愛の中に彷徨して悩しい時を送らねばならなかった。私の心は巷の刺戟を恐れるほど弱くなっていた。弱い心は静かな自然の抱擁を求めるほか道を知らなかった。私が武蔵野を訪《と》うことはその頃からいよいよ繁くなって来た。自然はすべての不平と煩悶とを葬るにまことに適しき墓である。草原に寝転んで青い大空を仰ぐとき、雑木林に彳《たたず》[#底本では「ただず」と誤記]んで小鳥の歌に聞き入るとき、私の憂いたる心もいつとはなしに微笑んでいた。
一方では自然にうちこむことによって私の心は次第に安静を得て来、他方では学校の学科の関係上倫理学や心理学や論理学やを勉強せねばならなかったが、それらのことは私にいま一度哲学的学科に対する興味を蘇らせる機会を与えることができた。初めは必要に迫られてやったことも後には自発的にやるようになり、また学問そのものに対する純粋な知的興味を私が感ずるようになったのもその頃からであったと思う。私が最も愛読した書物は西田先生の『善の研究』であったが、私はそこにおいてかつて感じたことのない全人格的な満足を見出すことができて踊躍《ようやく》歓喜した。もしこれが哲学であるならば、そしてこれが本当の哲学であるべきであるならば、それは私が要求せずにはいられない哲学であり、また情熱を高めこそすれ決して否定しないところの哲学であると私は信ぜざるを得なかった。それと前後して私が接する幸福な機会をもつことができたスピノザ哲学は、私の心に自然が与えると同じような、けれどもっと純化され透明にされた安静を与えた。以上のすべてのことによっての私の哲学的生活の第三の段階への準備に最後の完成を与え、またある意味では第三の段階そのものに属していたともいうことができるのは、私のカント哲学との接触であった。自己の衷なる理性、もしくは真の自己そのものの自覚、しかしてそれより生れる人格の品位に対する畏敬、これらのことを正しく私に教えることを得たことが、私をなにより先にカント哲学の学徒たらしめた。カント哲学は、哲学は自己を顧みない論理的遊戯であり、情熱を否定する概念的知識であるところにそれの本質を有すると考えた私の無智な誤解を一掃した。なぜならば、理性とは真の自己そのものであり、無限にして永遠なるものを憧がれ求める情熱の源となるようなものであるから。かようにして哲学的生活の第三の段階、すなわち真に正しき形而上学的要求に本《もと》づいた哲学的生活は、自己の本源に還るところ、永遠なるものに対する愛を感ずるところにおいて初めて成立する。これらの事柄に関しては、しかし、これから後幾度となく考うべき機会をもつに相違ない。私はたぶん正当に、第一の段階を個性前の段階、第二の段階を心理的個性の段階、第三の段階を哲学的個性の段階と名づけ得るであろう。
六
私は私の過去の哲学的生活の簡単で殆んど形式的な回顧においてさえあまりに情熱的であったように思う。私の情熱が私をふしぎに寂しく悲しいものにする。私は外に向うべき眼をもって自己の内を見ているようだ。少くとも自分自身を説服しようという無邪気ならぬ心組から何物をも求めようという成心のなかるべき懺悔の心を失いつつあった。懺悔は内に翻された眼によって、そしてその眼は恐らく湿っているであろうが、しみじみと自己を眺めることである。それは他に対しては固《もと》より自己に対してでさえ何物をも教えようとはしない絶対に謙虚なる心である。世のいわゆる哲学が集められ貯えられたる智恵に基礎をもつことを誇りげに語ろうとするとき、懺悔は自己が無智において成立する哲学であることをつつましやかに黙しつつ承認する。
けれど私はこの場合哲学がいかなるものであるべきか、厳密にいえば少くとも私の心が要求しまた私がそれを与える人でありたいと欲する哲学が、いかなるものであるべきかについて、二、三の考察を試みておくことが適当であると思う。
一般に哲学へのあり得べき正しき道として三つのものが指摘し得られる。第一は自己の深き体験から出て来、またそれに向う反省から哲学へ至る道である。私たちがふつう不注意と無感覚との中に投げ棄てている日常の瑣末《さまつ》な出来事をさえも自己の魂の奥底へまで持来して感じ、人生において大切なことは「何を」経験するかに存せずして、それを「いかに」経験するかに存するということを真に知れる人はまことに哲学的に恵まれた人である。彼は多き経験とともに深き経験を欲し、しかして深き経験とは彼にとっては必然的に反省的なる経験である。彼の体験は自ら反省にまで発展し、彼の反省は必然に体験にまで還って来る。哲学への第二の道は哲学史の徹底的な研究の道を通してである。事物の外観に迷わされずしてそれの根
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