語られざる哲学
三木清

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)懺悔《ざんげ》

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)煩悩|熾盛《しせい》

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   (数字は、底本のページと行数)
(例)よき[#「よき」に傍点]
−−

     一

 懺悔《ざんげ》は語られざる哲学である。それは争いたかぶる心のことではなくして和《やわら》ぎへりくだる心のことである。講壇で語られ研究室で論ぜられる哲学が論理の巧妙と思索の精緻《せいち》とを誇ろうとするとき、懺悔としての語られざる哲学は純粋なる心情と謙虚なる精神とを失わないように努力する。語られる哲学が多くの人によって読まれ称讃されることを求めるに反して、語られざる哲学はわずかの人によって本当に同情され理解されることを欲するのである。それゆえに語られざる哲学は頭脳の鋭利を見せつけようとしたり名誉を志したりする人が試みない哲学である。なぜならば語られざる哲学の本質は鋭さよりも深さにあり巧妙よりも純粋にあるからである。またそれは名誉心を満足させるどころかかえってそれを否定するところに成立するものであるからである。
 私のいま企てようとする哲学は、論理的遊戯に慣れた哲学者たちが夢にも企てようとは思わない哲学である。私は自己の才能を試みんがためにこれを書くのではなく、自己の心情の純粋を回復せんがためにこの努力をするのである。そしてこの努力が本当に成功するならば、私はこの一篇を書き終るとともに全く新しい性格の人として見出されるであろう。私は今年二十三である。すべてを ab ovo(始めから)に始めるために過去を食いつくしてしまわなければならない。私は私の半生の生活を回顧してその精算書を作ることを要求されている。そして私の精算書はつぎのようなふしぎな形式をとるであろう。私は自分が何をもっているかまた何をもっていないかを正直に知らなければならない。そしてそれの正当な認識はきっと私の虚栄心を破壊するにちがいない。けれど真に生きることはそこから始るのだ。私の努力が虚《むな》しく終るかあるいはよき実を結ぶか否かは私が本当に正直になりうるか否かによって決ることである。
 かつて私は同じような試みに悩ましいいく日かを送ったことがある。最初の試みは失敗して第二の試みがつづいた。第二の試みが失敗して第三の試みがつづいた。その当時私は失敗の原因を一方では私の体験の貧しさと思索の弱さと他方ではこうした仕事に専念することによって私は断片作者になりはしないかとの反省とに帰していた。私はいま私の失敗のさらに重要な原因を正しく見定めることができるように思う。体験の貧しさと思索の弱さとはいかにも失敗の原因には相違ないが、私がその失敗の後に非常な焦躁《しょうそう》と不安とを感じたことをもって見れば私の企ての動機のなかに不純なものが含まれていたことは明らかである。原稿はその最初の十枚にもみたない前にいく度となく裂《さ》かれたり焼かれたりした。私が草稿を作ろうとした動機の有力なものに、その草稿が人々によって読まれ称讃されることがなかったとは誰が保証することができよう。私の失敗は遺憾《いかん》なく私のかくされていた虚栄心を暴露した。私は隠謀があばかれたもしくは野心がすっぱ抜かれた人のような心持で、腹立たしいそして不安な憂欝《ゆううつ》の中を彷徨《ほうこう》した。私はその頃まだ私の仕事が決して他人を相手とすべきではなく私自身を相手とすべきことを知らなかったのであった。体験の貧しさと思索の弱さとは真の仕事の基礎となってそれを成就させるものでないことはいうまでもないが、それらについての正しき自覚と反省とは真によき仕事への必要な準備であることは疑いもないことである。体験の貧しさと思索の弱さとをしみじみと感ずることは私たちを決して不安と焦躁とに駆りはしないで、かえって静けさと安けさとに導く。不安と焦躁とは傲慢《ごうまん》な心のことであり、静けさと安けさとは謙虚な心のことである。よき魂は謙虚な魂であり、そしてよき魂のみがよき仕事を成し遂げることができる。
 私の失敗が本当に私の体験の貧しさと思索の弱さとに本《もと》づいていないことは、それのみならず私のその後の生活が決して改善されなかった事実が確かに証明していることである。自己の貧しさと弱さとの真の自覚は私たちをよき生活への憧憬と精進とに向わせずにはおかないであろう。断片作者になってしまいはしないかとの懸念が、私の失敗の事実上の原因であるにしてもそれが正当な原因であり得ないことは無論である。事実、私には断片作者となりやすい可能性が十分にあり、それに対して周到な警戒が必要なのであるが、私の試みは本質的には事業
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