の問題ではなくして心情の問題である。過去の生活の精算をするというのが主要なことであって、その精算書を作るや否やは畢竟《ひっきょう》従属的な、いわば方便上のことである。よき仕事を為《な》そうというのではなくして、それへの正しき準備をなすのである。あるいは結果を求めるのではなくして、結果への道を拓《ひら》くのである。よき魂を作ること、さらにはよき魂となることが私たちに最も大切な仕事であることを知っている人は、過去の生活や思想や感情のまとまらない精算が正しく行われるときには、決して断片作者を作りはしないことを確信するであろう。私はいま以上の二点についてたぶん間違っていない考えを得たように思うから、これから私は大胆にそして正直に私の仕事に向わなければならない。

     二

 語られる哲学においてと同じように、語られざる哲学において大切なことは、正しき問い方(Fragestellung)をすることと正しき出発点をとることとである。正しき問い方をなさないものは決勝点を見定めておかないで、かってな標的に向って走る選手のようなものである。彼のすべての努力は単に疲労をもたらすばかりであって、とうてい勝利を贏《かちえ》させはしないだろう。正しき出発点をとらないものは、あたかも誤ったコースに従って走る選手である。彼が一生懸命に走れば走るほど、彼は決勝点から遠ざかりつつあるのである。カントは哲学に正しき問い方を教えたものとして、デカルトは哲学の正しき出発点を見出したものとして殊に称讃されている。語られざる哲学の問題は、一体、いかにして正しく提出され得るであろうか。
 私は二つの問題の提出の仕方をもって極めて正当なものとして挙げ得ると思う。第一、いかにしてよき生活は可能であるか。第二、よき生活はいかなるものであるか。すなわち第一はよき生活の必然的制約 conditio sine qua non としての形式の問題であって、第二はよき生活の内容の問題である。まず最初に注意すべきは、私がよき[#「よき」に傍点]生活というのは単に道徳的な生活のみを主張するのではなく、正しき[#「正しき」に傍点]もしくは美しき[#「美しき」に傍点]生活をも含めて簡単な名をもって呼んだのに過ぎないということである。つぎに何故に生活一般の形式および内容が問題とならないで、特によき[#「よき」に傍点]生活の形式と内容とがここでは問題となるかを注意しなければならない。生活一般の形式と内容とに関しては、生理学や心理学や社会学が論議するであろう。私の語られざる哲学は生きることではなく、正しく、よく、美しく生きることについて静かに思いを廻《めぐ》らそうとする。語られざる哲学の学徒は必然的に自然主義者でなくして理想主義者である。さらに注意すべきは、私がいま提出した二つの問題すなわちよき生活はいかにして可能であるか、よき生活はいかなるものであるかとの問題は、畢竟従来の論理学が盛んに論議し来った問題と同一ではないかとの疑問である。この疑問は一応当然の疑問であるように見えるけれども、結局は事物の外観に泥《なず》んでそれの本質を究めようとしない者の言に過ぎない。論議される倫理学は単に論理上斉合的な、いわゆる悟性必然的なよき生活に関する知識をもって満足する。これに反して語られざる哲学にとっては、生活を改造しない知識、現実を支配しない理想は、音ばかりして決して射殺することができない弾丸が猟夫にとって無意味であると同様に無意味である。それは知識よりも生活を重要視する。そしてそれは真理に関する知識はただ生活することによってのみ得られるという信念を棄てようとはしない。私はいまトルストイの『我が懺悔』の一節を引用することが適当であると思う。「私は自分の間違っていたことを知り、いかにしてその間違いができたかを会得した。私が間違いをしていたのは、私の考え方が正しくなかったというよりもむしろ、私が忌わしい生活をしていたからであることを知った。真理が私に隠されていたのは、私の推理が誤っていたというよりも、私が肉の煩悩を満足させようとして、法外な道楽者の生活を送っていたからであることを知った。」語られざる哲学が求める真理は全人格が肯定しまた全人格が喜ばしさに盈《み》ち溢《あふ》れつつ服従する生ける真理である。それは私たちにとって律法ではなくして愛の対象となるような真理である。
 私は語られざる哲学の正しき出発点について最初の思索を試みようと思う。

     三

 有名なデカルトはその哲学の出発点に当ってすべてを疑った。単に伝統や証権やが教えるものばかりでなく自己の感官、進んでは自己の理性の指示するところのものをも疑った。De omnibus dubitandum.(あらゆるものを疑ってみなければならない)しかし
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