て彼が方法論的懐疑といわるるものの最後に到達した真理は Cogito ergo sum.(われ思う、ゆえにわれ在り)ということであった。この絶対に疑い得ないと信ぜられた真理から出発して彼は因果律を用いて神の存在を証明し、かくして最初には疑われたものを懐疑の中から救い得ることを論証しようとした。語られざる哲学の出発点もまた懐疑であるであろうか。多くの人々にとって自明であるこの事実を、私も一応は是認しなければならない。私たちが現に感じ知り欲しておるありのままの事実を、なんらの疑いもなくそのまま受容し承認する人々に、語られざる哲学のないことは論を俟《ま》たない。現実に対して不満を感じ疑いを懐くところから私たちの哲学も始るのである。懐疑はふつう征服されるものであるが、それが征服されない形でとどまる場合には、私たちはそれを懐疑主義もしくは懐疑説の名で呼んでいる。批判哲学の学徒は懐疑主義の成立が不可能なるゆえんを論じて、懐疑主義は自殺である。懐疑主義が主張されるということは、すでに真理の存在を予想するものであるという。私は批判哲学のこの鋭い批判をも承認しなければならない。語られる哲学における懐疑説は、おそらくこの投ぜられた槍によってひとたまりもなく射殺されるであろう。けれども、語られざる哲学における懐疑説は頭脳の考えたものではなく、心臓の感ずるものであるがゆえに、単なる論理によって征服されるようなものではない。私たちはしばしば頭で反対しながら心臓で信ずる。それは概念上の懐疑主義ではなくして生活上の懐疑主義である。
 私が知恵によって目覚まされてから後いくばくもなく私の懐疑が始った。私の意識された知的生活の殆ど最初の日から、私は学校や教師をあまり信用しなかったし、またそれらから教えられる道徳に大した権威をおくこともできなかった。私は悪戯好《いたずらず》きで反抗的な子供であった。教室では傍視《わきみ》をしたり、隣の生徒に相手になったり、楽書《らくがき》をしたりばかりしていた。けれども成績の良い子供であるという教師たちの評判が私を妙に臆病にさせた。中学時代になってからは権威に対する懐疑と反抗と自己の力を示したいという虚栄心とから私は体操の教師と衝突し、文芸部の主任に反対し、校長に対してまで反抗した。その頃私は弁論の練習をしながら大政治家になろうという空漠な野心に燃えていたのだった。伝統や証権に対する懐疑が悪いことであるとは私は決して信じない。懐疑が悪いこととして否定されなければならない場合はいつでも、第一にその懐疑が徹底していないとき、第二にその懐疑の動機が正しくないときである。懐疑主義者と自称する世の多くの人々と同様に、私も徹頭徹尾懐疑的でなかった。学校や教師を信じなかった私は書物や雑誌を信じた。そして書籍の中でも偉大なる人々が心血を傾け尽して書いたものを顧みることは、旧思想との妥協者として譏《そし》られる恐れがあったので、私は主として虚栄心のためあるいはパンのために書かれた一夜仕込の断片的な思想を受け容れた。なんでも新しいものは真理であると考えられるような時代が私にもあった。私はいわば犬の智恵をもって人間の智恵を疑ったのである。私は少しでも異なったことをいう人の名をなるべく多く記憶したり、ちょっとでも新しいことを書いた書物の題をなるべくたくさんに暗記して、ただそれだけでいわゆる旧思想が完全に破壊され得ると考えていたらしい。
 私の懐疑は私自身の苦しい思索の結果というよりもむしろ私の断片的な知識の蒐集《しゅうしゅう》に本《もと》づいていた。しかしさらに悪いことは、私は私が懐疑主義者であるがゆえに私は他の人たちよりも優秀な人間であると思っていたことであった。私はひとかどの思想家のつもりで他のまじめに学業に励み教訓に忠実な人々を蔑んだ。私たちがそれらの人々を呼んだ名は「古い頭の男」もしくは「意気地のない男」というのであった。けれども懐疑主義はどんな理由からでも他人を攻撃することができないはずではないか。懐疑主義が売物にされることほど不合理なことはない。懐疑主義はそれが正当に解された場合においてさえ語られざる哲学においてのみ許され得る思想である。いまから考えてみればあの時代の私の懐疑は新思想を担《かつ》ぎ廻って新しがらんがための懐疑であり、自己の虚栄心に媚《こ》びんがための、あるいは人が自明のことと承認していることをも疑い得る能力が私にあることを示さんがための懐疑であったように思う。
 語られざる哲学の正しき懐疑主義者は謙遜であり、まじめでなければならないのであるが、その頃の私の心は傲慢であったし私の生活はふまじめであった。単に疑わんがために疑っていた私の不徹底な懐疑主義は、よく起るように自然主義と結びついてそれを弁護する役目をさえ演じた。語られる
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